游々自敵

中身のない話と虚無

好きで生きづらいわけじゃないけど

主治医に定期的に彼氏の有無を尋ねられる。一応はいないと毎回答えているのだが、そろそろ辟易してきたので架空の恋人の話でもでっちあげようか悩んでいる。日々痛感するが、自分の掲げる信条や持ち合わせている性質はかなり「普通ではない」のだろうな、と感じることが多い。

 

特に隠しているつもりはないのだが、私はパンセクシュアル(性別に関わらず個として魅力を感じた相手に恋愛感情を抱く)である。親しい友人らは当然のようにこの事実を知っているし、おそらく私の母も明確に伝えてはいないがうっすらと気づいているだろう。

彼氏の有無やその他恋愛に関する話題が上がるたびに、「荻野さんは彼氏いないの?」「どんな人が好きなの?」と聞かれることがある。こういうとき、私は他人から自分が当然のようにヘテロセクシュアルだというレッテルを貼られているのだな、と実感する。特に私が宣言したわけでもないのに、だ。そして私がやんわりとパンセクシュアルであるようなことを匂わせると「もしかしてそういうケがあるの?」と冗談混じりに言われる。

別にその時点で「はいそうです」と返しても問題はないのだが、というよりそうすべきなのだろうが、仮に私がそう返事したとして相手は一抹の気まずさを胸に抱えることだろう。私はそちらの方が耐えられないので、相手の顔を立てるようにしている(この表現が正しいのかも分からないが)。これを驕りだと指摘されたらその通りなので頷くしかない。でも考えてもみてほしい。職場でその先気まずさを持たれながら生きていくくらいなら、私はまだ我慢できるから流してしまう。

ただ、あくまで私の話なので全ての人に共通するわけではない。もしあなたの隣人で「はい、そうです」と頷く人がいたならば、それはその人のことをできる限り尊重してほしい。その人もきっとあなたのことを尊重しているから。

 

話はそれるが、恋人の有無に関係なく、私は子供を授かりたくない。なぜなら生まれた子を愛せる自信がないからだ。私は両親に愛されて育った自覚はあるが、かと言って私が同じように自分の子を愛せるかと言われたらそれは話が別だ。私は私以外の人生を背負う自信はないし、責任も取れないと思う。

稀に「子供がいてこその幸せだよ」「できてみなきゃ分からないよ」と言う人がいるが、それなら私が子供を産んだときにその子を愛せなかったらその人たちはその子を私の代わりに育ててくれるのだろうか? その子の人生を背負ってくれるのだろうか?

断じて私は、子供がいることを幸せだと考える人の幸福論を否定したいわけではない。そういう考え方もあることは承知しているし、おそらくそれが最も「一般的」な考え方なのだと思う。ただ、人の幸福論を肯定することと私が私に掲げる反出生論は両立してしかるべきなのだ。一部の人は私の反出生論を全人類に掛かると読み取ることがある。それは違う。私にしか掛からない。私は誰かの幸せを否定しない。だから、その対価に私の信条だって否定しないでほしい。好きで生きづらいわけじゃない。

 

思想は、全人類に共通しない。あなたと異なる思想を持つ人だって隣人に存在するかもしれない。友達と会話するとき、その人がどういう人を好きになるのか、そもそも他者に恋愛感情を持つのか、これを読んだ人の脳裏に一瞬でもいいからそんな疑問がよぎることを祈ってやまない。