游々自敵

中身のない話と虚無

君は天才を見たことがあるか

「天才」という言葉は今日そこら中で乱用と言っていいほど使われるような表現ではあるが、果たしてそのうちで本物は一体どのくらいいるのだろう。本物の天才がなんなのかを定義するのはかなり難しいけれど少なくとも私は私の価値観で人生で二回、「本物の天才」に触れたことがある。そのうちの一人の話をしたい。

 

その子は私よりも1つ下の女の子で、年の割にはかなり落ち着いた考え方と話し方をするものだから最初は私よりずっと年上なのだと思い込むほどだった。

初めて彼女の文章を読んだとき、その言葉選びと間合いのセンスに震え上がったのを覚えている。感想のコメントを送らずにはいられなかった。その時の私はそのコメントがきっかけで彼女が長く作品を書く立場に身を置くなんて思っていなかったし、彼女と親しくなれることだって想像すらできなかったが、兎に角「この今感じている素晴らしさと感謝を伝えなければ」と必死になって自分の薄っぺらい語彙から言葉を探した。

 

そんな彼女とそれから交流を深め、ある日のこと。彼女は私が感想を送った作品の続編を書き上げた。彼女の宣伝ツイートを見かけて軽い気持ちで文章を読み始めた。

 

筆を折りたくなった。

何がどうだったとか、理屈ではない。ただただ圧倒された。きっと世間から見たらまだまだプロの書く文章には程遠いなんて叱られてしまうのかもしれない。それでも完成された文章だったのだ。怖かった。

 

経験を積んでそれが文章に滲み出るというのもわかる。それは私自身経験しているし、年を重ね書くことを繰り返すごとに文章力は確実に向上している。

それでも、多分。天才はそういうことではないのだ。天の才能はそういう理屈とかではない。感受性の問題だ。どんな言葉をどう並べて、言葉の間合いをどう取るか。それを自然にできるのだと思う。

彼女が努力をしているのは知っている。知っているからこそ、多分私は一生、永遠に勝てない。だってあの文章を読んだ瞬間私は負けを認めたのだ。みっともなく泣いた。彼女の文章は面白い。面白かったのだ。

 

そんな彼女とは先日一緒に並んで自分で書いた本を売ったし、一緒にその後に打ち上げに行ったし、多忙な彼女はなかなか最近ツイッターには現れないけれど見かけるたびに会話を交わすほどには仲がいい。彼女も私のことを「先輩」と慕ってくれるし、私もそんな彼女を可愛がっている。彼女の書いた本は実に面白かった。でもそれが私が打ちのめされたあの作品ほどではなかったことを安堵する自分が憎いのも事実だ。

 

もしかすると今、あの話を読み返したら「なんだ、実はそうでもないじゃん」と思うかもしれない。

でも私は、きっと、この先一生。

あの話をもう一度読み返すことはないだろう。