游々自敵

中身のない話と虚無

今日も誰かの煌めきを瓶詰めて帰路

こんにちは、思っていたより冬が冬らしくてビビり倒している荻野です。明日から12月ですね。今年が終わりますよ。どうします?

 

今朝、

「きりりとした、ラムネ瓶にも似た澄んだ冬の朝の匂い」

という比喩を用いたのですが、そういえばわたしはこういう表現がいっとう好きなんだなぁ、と改めて実感した次第です。

青みがかった透明なものとキラキラ瞬くものが好きです。硝子、空、水、海、星、エトセトラ。試験管とかフラスコとときめくかな。宝石とかも好き。多分透明なものが好きなんだと思います。蜂蜜も好きだな。

 

「星屑の囁き」「夕焼けの欠伸」「無菌室の箱庭」「可愛いあの子が恋した瞬間の煌めき」

そういうものが好きで文章を書いています。無論、題材に扱っているものはそんなにキラキラしたものではないんですが。

 

「荻野ちゃんの文章は硝子みたいだね」と言われることがあります。わたしもそう思います。そういう文章になればいいな、と思いながら書いています。わたし自身は全く硝子みたいに透明でもキラキラしてもいないんですけど。文章に人柄が出るというのは本当なのだろうか。すぐ割れるところとかポンコツ加減は似てるな。

 

わたしはわたしのことが好きだし、わたしの書く文章が好きだから書いています。

たまに履き違えそうになるんです。「感想が欲しいから」「人に期待されてるから」書いてるんだって。そうじゃない。感想も欲しい。期待もされたい。褒められたいしいっぱいわたしの本を買ってほしい。全部本当だけど、そんなの後付けで、

「わたしはわたしのために」文章を書いている、そうでなくちゃいけない。

出したいから印刷所に申し込みするし、やりたいから再販をかけるし、読んでほしいから宣伝する。人のためじゃない。わたしのため。

わたしのためだから、人に何言われても「でも、わたしのためにやってるだけだから」って胸張って言える。

 

人のためにものを為すのは簡単です。あまりにも。でも、人のためにやったら、それはなんだかずるい気がする。責任の押し付けみたいな気がする。自分がやりたくてやってることなのに。「あの人がそう言ったから」なんて言いたくない。

 

これは戒めです。つけあがるなと自分に言い聞かせるための自戒です。

好きでやるのは悪いことじゃない。でも、好きでやってるなら他人のせいにしてもいけない。自分のことが誰より好きだから、自分のために生きていたい。そこに誰かが入り込む余地はなくて、だから、なんていうか。

 

今日も私は私の煌めきを瓶に詰めて眠りに就きたい。誰かのための瓶詰めではなくて、私のために本棚にそっと並べていたいなと、そうやって生きていきたいな、と。