游々自敵

中身のない話と虚無

万年筆はアサルトライフルより強いか?

それなりに、レール通りの人生を歩んでおります。荻野です。今日はそういう話です。

 

小さい頃から、漠然と「わたしは多分、大学に通うんだろうな」と思っていました。多分それは父の影響が強かったのだと思います。あの高校に通うんだろうな、そうしたらその先は大学に行くんだろうな、そんなことを漠然と考えていたら概ねその通りに成長しました。

ある頃から「私は本を出すんだろうな」と思っていました。おそらくその頃思っていたものと形は違えど本を作ることはわたしの好きなことの一つです。

 

将来の夢はなんだろうと考えています。作家になりたいといえば嘘になるし、本当でもある。なれたらいいな、でも難しいだろうな。なまじ現実を捉えられる年齢というのは夢を見るには大人になりすぎていて、まだ夢を見ていいのかもしれませんがわたしにはちょっと遅かったように思えます。作家になる夢を諦めてはいません。

でも、どちらかといえば、ない脳みそを絞って泣きながら話を書くよりは、この話が書きたい、書いていて楽しいな、と思っていたいのです。甘いでしょうか。甘いのでしょう。でも、まだ子供ですから。傷つくのも現実を見るのも少し遠くにあってほしいのです。

わたしはわたしの作品を好きだと言ってくれる人のために作品を書きたい。勿論書きたいと思う気持ちも欲もわたしだけのもので、誰にもあげるつもりはないけれど、わたしの書いた作品を好きだと言ってくれる人がいるならば、その人たちに読んでほしいなぁ、と思いながら言葉を綴るわけです。

 

最近、文章を書くのが楽しいな、と久々に思えるような作品を書きました。本当に楽しかった。

わたしは自分を愛せない人間の作品を他人が愛してくれると思っていないので、自分の書いた文章はどれも好きなものです。でも、その中でも「これはわたしの自慢の作品だ」と胸張って言える話がかけたので、そしてそれがたとえ狭いコミュニティであろうととても評価してもらえたので、やっぱりわたしは文章を書くことに生かされているなぁ、と思うわけです。

 

言葉を紡ぐことを生業にして生きていくのはきっとまだわたしには遠い遠い世界の話で、それでも今ここにいるわたしは、感じるままの言葉をひとつひとつ、丁寧に愛してあげられたらいいな、と思っています。