游々自敵

中身のない話と虚無

透き通る冬の匂いは私の青い春

こんにちは、前回の記事が地味に伸びたので「いったい何人が検索したんだろうなぁ」と思わずしたり顔をしてしまった荻野です。身内で二人いました。でもなんとなくありそうだよね。私もそう思う。

 


わたしはわたしが生きている世界が結構好きだ。そりゃあ寒さは嫌いなので冬の朝なんて来なければいいと思うし夏のじとじとした蒸し暑い日差しと生温い風に体をどろりと溶かすのだって嫌いだし春と秋の花粉で顔面がズルッズルになるのも嫌だ。

でも、冬の朝に鼻をすん、と鳴らした瞬間に飛び込んでくる澄み切った氷のような冷たさを感じる冬の匂いとか、抜けるような眩しい青空に映える白い入道雲とか、春風と踊る桜吹雪とか、そういうものは見ていて好きだし、美しいと思う。

低気圧の引き起こす体調不良は大嫌いだけど雨が降る直前の匂いは好きだし、大きな音は嫌いだけど雷鳴はわくわくしてしまったりする。寒さも冷たさもできれば味わいたくないけど新雪を踏みしめるのは好きだ。


わたしは我儘で傲慢なので地球がわたしに適応しろ、と常々思っているし、わたしがわたしの世界の中心だとも思っている。だけどどうにもならないことも知っているから、その主張を引っ込めることはないけれどどうにもならないなりにわたしの世界を謳歌している自信はある。

 


わたしは世界を美しいと思っている。だから自分の文章を半年後、一年後、二年後に読み返したとき、「うわ、この時こんな表現思いついてたんだ、すごいな」と思うときもある。自画自賛になるが、自分が世界に産み落とした世界の美しさを謳った作品をどうして美しいと思わずにいられるのだろうか。


私は絵に描いたような青春を送っていない。人並みに友達はいたし、文化祭の中心メンバーとして盛り上げることができたと思うし(多分)、運動神経はないから部活も体育祭もボロボロだったけど、人並みの楽しい高校生活を送った。中学生の頃の話は訊かないでほしい。

でも、漫画やアニメで見るような青春は当たり前だけどどうしたって送れるはずがない。だけど、それでも、私はその高校生活で一度だけ、胸張って「これは私の青春だった」と言える瞬間がある。


高二の冬、どんよりとした曇り空の朝。制服を身に纏い、リュックを背負ってバーバリーのマフラーを巻いていたと思う。家の門を閉じて鼻をすんと鳴らした。


冬の匂いがした。


未だに忘れられない。あれはどうあっても冬の匂いだった。私は冬生まれだけど寒さがとてもとても苦手だから憂鬱だったのだが(マフラーを巻けるところだけが好きだった)、少しだけ冬が好きになった。

それから二回冬が過ぎた。私はあれ以来まだ冬の匂いを感じられていない。

馬鹿げていると笑うだろうか。それでも結構だ。でも私はあの瞬間が私の人生で一番の青春だったと思う。青い春ではなくて冬だったし、どんよりした曇り空だったけれどそれでも私の全てがそこにあったのだ。

 


満員電車に揺られていると、無感情な機械に成り下がりそうになる。それでも、私があの日感じた冬の匂いと世界の美しさを思い出すと、人間として頑張ろうかな、と思えたりするのだ。


世界は誰かが思っているよりも美しい。それを常に実感しなくてもいいけれど、ふとした瞬間に思い出してみると、ちょっとだけ世界の解像度が上がるかもしれない。