游々自敵

中身のない話と虚無

一夏の備忘録(主にロックンロールと私について)

先日お恥ずかしいながら初めてライブハウスでのライブというものに足を運んだ。という言い方は正確ではなくて、正しく言い直すならばメジャーデビューしているアーティストのライブハウスでのライブ、になると思う。高校生の頃はよく同級生のライブに行っていた気がする。多分。

 

大学生になってから幾分か私の生活の中で「音楽」が占める割合が増えてきたように思う。それはもちろん聴くアーティストの幅が広くなっただとか前よりも気軽に音楽を買うようになっただとか、そういうものもあるのだけれど、有り体に言えば「現場に足を運ぶ」という行為を始めたからだと思う。

 

去年の夏、好きなバンドが一番好きな曲をフェスの最初に歌ってくれた。あの瞬間の震えるような喜びは多分、人生で感じたうちの中でも一番二番を争うほどだ。ドーパミンドバドバである。そのせいで今年も野外フェスに参加する羽目になった。めちゃくちゃに楽しかった。

 

だから、本当に気まぐれで、最近聴き始めたバンドのライブに応募した。ら、整理番号はあまりよいものではなかったけれどあっさり取れてしまったので死ぬほど焦った。焦りながら友達を誘ったら快諾してくれた。優しい友達を持っていることに心から感謝した。

フェスは人数が多いから割と何をしても(もちろん規範の中で、の話だ)許される気がする。遠くでご飯を食べながら聴いていてもいいし、前まで出て盛り上がりに行ってもいいし……エトセトラエトセトラ。

それは多分、人数があまりに多いからオーディエンスがお互いのことを気にしていないことを無意識的に感じ取っているのだと思う。その点ハコでのライブはそうではなくて、「そのバンドが見たい!!!」という人が集まっているから、なんとなく粗相ができない。する気は無いのだが人間どう取られるかはわからないので、あまり下手なことはできない。だからライブ直前までは本当に行っていいんだろうか……と勝手に頭を抱えていた。

 

そしてライブが終わって、こんな感じだった。

「ッッッッッッヴワーーーーーーーー!!!!!!すごい!!!!!!めちゃくちゃ楽しい!!!!!!!!!!!!全部ちゃんと曲知ってたらもっと楽しかったんだろうな!!!!!!!!!!!!次のライブいつかな〜〜〜〜〜〜!!!!!!」

 

5歳児か?

 

正直全部吹っ飛ぶくらい楽しかった。なんだあれ。いやフェスがめちゃくちゃ楽しいならワンマンも楽しいに決まってる。それはそう……生きててよかった…………めちゃくちゃ楽しいじゃん…………

 

今年の夏は特に追われている原稿もなく、それゆえに本に関連することからは遠ざかっていた。だから相対的に音楽に対する比重が自分では大きく感じられたのかもしれない。あとびっくりすることに映画も観た。そしたらめちゃくちゃ文章を書き始めた。私がこの一年悩んでた文章をひねり出せないスランプはなんだったんだよ。

 

このブログ何が言いたいのかちょっとよくわからなくなってきたのでこの辺で終わりにしておこうと思う。実はちゃんと文章書いてますよって多分それが言いたかっただけ……あとプロメアを観てください。4DX上映が始まります。プロメア、すごいぞ!

私はそれでも腹を切り身を削る

昨日、10冊目の本を出したので同人作家をやめた。

 

やめたという表現はあまり正確ではなくて、実際にはこの先もたぶん私は本を出すし本を売る。でも私はとりあえずここで自分に一区切りをつけたくて、「やめる」と宣言した。

同人作家がなんだかよく分からない人はそのまま一生わからないままで生きていてほしいのだが(切実に)、端的に説明するならば自腹を切って本を作る頭のおかしい人のことである。こんなことを言ったら叱られるかもしれないが自腹を買って自分を追い込みながら本を出すなんて正気でできるはずがないのでみんな頭はおかしい。

 

高校三年生の春に友達と一緒に初めて本を出した。原稿は終わらないし印刷所のことはよく分からないしでてんやわんやだったがとにかく本は出た。めちゃくちゃ余ったけど2年半かけてようやく完売した。

それから何度も本を出して、昨日、ようやく10冊目。三年で10冊。早いのが遅いのか私には分からないが、少なくとも去年の9月から今年の7月までずっと本を書いていたことになるし、そもそも9月に本を出すことを決めたのは去年の6月だったから一年近くは何らかの本を書いていたことになる。頭おかしいなやっぱり。

 

本を作るのは楽しい。

 

 

なんてことはない。

締め切りに追われるのは最悪だし毎日話が書き進められるわけではない。スランプなんてザラだけど締め切りは迫ってくるから何とかして脳から捻り出さなくてはならないし、イベントが試験とかぶることが多いからいつも「死ね」と思う。

おまけに自腹でn万円印刷代に飛ばさなきゃいけないし、当日の荷物はめちゃめちゃ多い。本当にクソだ。早く辞めたい。辞めたかった。

 

本当に辞めたかった。昨日の帰り、最寄駅の一つ手前の駅に着くまでは。

イベントを終えて、打ち上げをして、おわったなー、もう辞められる!なんて思ってたのに、帰りの電車で私は泣いた。

10冊分の重みが襲ってきた。

 

同人作家はクソだ。生活はゴミみたいになるし原稿が生活の中心になる。

でもイベントで差し入れをもらった時とか、お手紙を手渡ししてもらえたときとか、感想が飛んできたときとか。めちゃくちゃ焦りながら入稿した本が届いたときとか。

本当に、あれは、楽しかったし、楽しいことだ。

 

10冊。文字で数えると30万字くらい。原稿用紙750枚分。厚さはちょっとわからないけどたぶん人を殴ったら殺せる。

私はこれだけの文章を書いた。その証明がここにある。それは、多分、本を出した人間にしかわからない感情だ。

自分の努力が明確に形になるのは。恐ろしくて、同じくらいに強烈な快感だ。

 

多分私はどうせ辞めるなんて言っておきながら近いうちに本は出すし売り始めるだろう。めちゃくちゃやりたくないけど、本当にクソみたいな趣味だと常日頃から思っているけれど、それでも私は腹を切り身を削り心血を注いで本を出す。

 

だって馬鹿だから、頭がおかしいから。このクソみたいな趣味が愛しくてたまらないのだ。

 

わたしはインスタ映えを笑えない

InstagramというSNSは、もしかすると私たちの世代にとってはTwitterより身近なコンテンツなのかもしれない。生憎なことに私はTwitterのほうが性に合っているからInstagramを使うことはあまりないが、それでも1日1回はなんとなく開くし、私でさえそうなのだから他の人はもっと開いているし、もっと投稿しているに違いない。違ったら申し訳ないが。

 

今巷を賑わせているタピオカとかいうあの黒いつぶつぶしたデンプンは(悪意のある言い方になってしまったが決して悪意はない、私もどちらかといえばタピオカは好きなほうだと思う)女子高生や女子大生を中心に空前のブームとなっていて、都内各地に専門店があるし、なんから私の大学の近くにもある。

待ちゆく若い女性が手に持っているプラスチックカップは大抵スタバかタピオカドリンクだ。

少し前には可愛らしく飾られたコーンアイスが流行っていたし(多分)、「(インスタ)映え」という言葉をコンセプトにするものは増えている。

 

めちゃくちゃなことを言うが私はInstagramTwitterにおけるハッシュタグが大っ嫌いなので投稿に複数のタグが付いているとめちゃくちゃに萎えるのだが何を投稿するかは個々人の自由なので別に指摘はしない。逆に言えば私がここでアンチハッシュタグ文化を掲げたとしても私が容認している分向こうも何も言えないのである。

と、予防線を張ったところで本題に入りたい。

 

巷で流行りのインスタ映え、その闇として「写真を撮って終わり」というのはよく言われる話だ。例えば先に挙げたタピオカドリンクはプラスチックカップが道端に捨て置かれているだとか、コーンのアイスクリームは一口も食べずにゴミ箱に廃棄されていたとかで話題になったのは記憶にある人もいるだろう。

インスタ映えは負の文化だなんて捉えている人もいるかもしれないが、そこに私は疑問を持っている。

 

そもそもそれはモラルの問題であって、インスタ映えのせいではない。

そういうことをする人は別にインスタ目的であろうとなかろうとポイ捨てはするし食事を残すだろう。

別に写真を撮ることは悪くない。これらの悪評のせいで食べ物の写真を撮ること自体が悪みたいに考える人もいるが、私たちが文化祭でスナップ写真を撮ったり美しい景色をカメラに収めたりするのとなんら変わらないことで、美味しそうなものがあれば別に写真を撮っていい。

 

そもそもさらに言えばインスタ映えを毛嫌いする人はミーハーなものが嫌いな傾向にあるが(ソースは私だ)、ミーハーは別に悪いことじゃないし私だって流行りのバンドの曲は聴いたりするしバズったツイートは見る。唾棄されるべきはミーハーではなく単純にモラルのない人間だ。

 

別にインスタ映えを嫌うことが悪なのではない。ここまで話した私も正直にいえばあんな文化はめちゃくちゃ嫌いだし、インスタ映えが嫌いだからインスタ萎えを狙って食べ終わった皿を上げているしハッシュタグはつけていない。

でも私がインスタ映えを嫌いだということとインスタ映えは唾棄されるべきだということは絶対に混同してはいけないのだ。

だからこれは一種の戒めみたいな話だ。

 

結局のところで何が言いたかったかと言えばテトリス99のスプラトゥーンスキンがめちゃくちゃ可愛いという話に帰結するので、みんなもNintendo Switchを買おう!

昨晩はカレーを残さず食べた

一年ほど前に好きなアーティストが亡くなった、という記事を書いた。(リンクを貼るのが面倒なのでさかのぼって探してほしい)

今日はそのちょっとした後日談だ。

 

そのアーティストの新曲が昨日アップロードされていた。

というのも、彼の未発表の作品や未完の作品を他のアーティストが完成させたものを集めたアルバムが発売されるのだ。(されたのかもしれないし内容はちょっと違うかもしれない。ちゃんと調べていなくて申し訳ない)

 

すごいことだ。

なにがすごいって、彼はデジタル世界では生きているのだ。

正直な話、実のところ彼が亡くなっているという実感はあまりなくて、だからここ数年、上がりもしない新曲を待ち望んでいた節がある。

最初を齧る程度にしか聴いていないが、あの音は確実に彼の作る音だった。すごい。すごいことだ。ちょっと泣いた。

 

でもこれはきっと、いや、確実に、彼の最後の作品になる。このアルバムを最後に彼の作品は二度と世に出ることはないだろう。喜びの傍でついに現実を叩きつけられてしまったなぁ、とも感じた。あれから三年余りがたった。今度こそは彼がなにも生み出さないことを受け入れられる気がする。

 

デジタル社会というのは不思議なもので、こんな風にもういない人間の作品がいなくなった後に公開されることもある。多分それは、月並みな言い方ではあるが「人は死なない」という1つの形でもあるのだ。頭に残っているだけの思い出はすり減るかもしれないし、伝聞といった形で段々と歪められていくかもしれない。でも、写真や音楽、イラスト、そういったデータは正しくその形を残していく。

これを「死ねない」と捉えるか「生き続ける」と捉えるかは人それぞれだと思うが、決して悪い事ばかりではないのだ。

 

 

わたしの好きなアーティストが新曲を発表した。

わたしはそれが、心から嬉しくてたまらない。

君は天才を見たことがあるか

「天才」という言葉は今日そこら中で乱用と言っていいほど使われるような表現ではあるが、果たしてそのうちで本物は一体どのくらいいるのだろう。本物の天才がなんなのかを定義するのはかなり難しいけれど少なくとも私は私の価値観で人生で二回、「本物の天才」に触れたことがある。そのうちの一人の話をしたい。

 

その子は私よりも1つ下の女の子で、年の割にはかなり落ち着いた考え方と話し方をするものだから最初は私よりずっと年上なのだと思い込むほどだった。

初めて彼女の文章を読んだとき、その言葉選びと間合いのセンスに震え上がったのを覚えている。感想のコメントを送らずにはいられなかった。その時の私はそのコメントがきっかけで彼女が長く作品を書く立場に身を置くなんて思っていなかったし、彼女と親しくなれることだって想像すらできなかったが、兎に角「この今感じている素晴らしさと感謝を伝えなければ」と必死になって自分の薄っぺらい語彙から言葉を探した。

 

そんな彼女とそれから交流を深め、ある日のこと。彼女は私が感想を送った作品の続編を書き上げた。彼女の宣伝ツイートを見かけて軽い気持ちで文章を読み始めた。

 

筆を折りたくなった。

何がどうだったとか、理屈ではない。ただただ圧倒された。きっと世間から見たらまだまだプロの書く文章には程遠いなんて叱られてしまうのかもしれない。それでも完成された文章だったのだ。怖かった。

 

経験を積んでそれが文章に滲み出るというのもわかる。それは私自身経験しているし、年を重ね書くことを繰り返すごとに文章力は確実に向上している。

それでも、多分。天才はそういうことではないのだ。天の才能はそういう理屈とかではない。感受性の問題だ。どんな言葉をどう並べて、言葉の間合いをどう取るか。それを自然にできるのだと思う。

彼女が努力をしているのは知っている。知っているからこそ、多分私は一生、永遠に勝てない。だってあの文章を読んだ瞬間私は負けを認めたのだ。みっともなく泣いた。彼女の文章は面白い。面白かったのだ。

 

そんな彼女とは先日一緒に並んで自分で書いた本を売ったし、一緒にその後に打ち上げに行ったし、多忙な彼女はなかなか最近ツイッターには現れないけれど見かけるたびに会話を交わすほどには仲がいい。彼女も私のことを「先輩」と慕ってくれるし、私もそんな彼女を可愛がっている。彼女の書いた本は実に面白かった。でもそれが私が打ちのめされたあの作品ほどではなかったことを安堵する自分が憎いのも事実だ。

 

もしかすると今、あの話を読み返したら「なんだ、実はそうでもないじゃん」と思うかもしれない。

でも私は、きっと、この先一生。

あの話をもう一度読み返すことはないだろう。

今日も誰かの煌めきを瓶詰めて帰路

こんにちは、思っていたより冬が冬らしくてビビり倒している荻野です。明日から12月ですね。今年が終わりますよ。どうします?

 

今朝、

「きりりとした、ラムネ瓶にも似た澄んだ冬の朝の匂い」

という比喩を用いたのですが、そういえばわたしはこういう表現がいっとう好きなんだなぁ、と改めて実感した次第です。

青みがかった透明なものとキラキラ瞬くものが好きです。硝子、空、水、海、星、エトセトラ。試験管とかフラスコとときめくかな。宝石とかも好き。多分透明なものが好きなんだと思います。蜂蜜も好きだな。

 

「星屑の囁き」「夕焼けの欠伸」「無菌室の箱庭」「可愛いあの子が恋した瞬間の煌めき」

そういうものが好きで文章を書いています。無論、題材に扱っているものはそんなにキラキラしたものではないんですが。

 

「荻野ちゃんの文章は硝子みたいだね」と言われることがあります。わたしもそう思います。そういう文章になればいいな、と思いながら書いています。わたし自身は全く硝子みたいに透明でもキラキラしてもいないんですけど。文章に人柄が出るというのは本当なのだろうか。すぐ割れるところとかポンコツ加減は似てるな。

 

わたしはわたしのことが好きだし、わたしの書く文章が好きだから書いています。

たまに履き違えそうになるんです。「感想が欲しいから」「人に期待されてるから」書いてるんだって。そうじゃない。感想も欲しい。期待もされたい。褒められたいしいっぱいわたしの本を買ってほしい。全部本当だけど、そんなの後付けで、

「わたしはわたしのために」文章を書いている、そうでなくちゃいけない。

出したいから印刷所に申し込みするし、やりたいから再販をかけるし、読んでほしいから宣伝する。人のためじゃない。わたしのため。

わたしのためだから、人に何言われても「でも、わたしのためにやってるだけだから」って胸張って言える。

 

人のためにものを為すのは簡単です。あまりにも。でも、人のためにやったら、それはなんだかずるい気がする。責任の押し付けみたいな気がする。自分がやりたくてやってることなのに。「あの人がそう言ったから」なんて言いたくない。

 

これは戒めです。つけあがるなと自分に言い聞かせるための自戒です。

好きでやるのは悪いことじゃない。でも、好きでやってるなら他人のせいにしてもいけない。自分のことが誰より好きだから、自分のために生きていたい。そこに誰かが入り込む余地はなくて、だから、なんていうか。

 

今日も私は私の煌めきを瓶に詰めて眠りに就きたい。誰かのための瓶詰めではなくて、私のために本棚にそっと並べていたいなと、そうやって生きていきたいな、と。

マゾヒズム大マラソン

お久しぶりです! 夏から無限原稿マラソンをしていたと思ったらどうやらあと半年またマラソンが続くようで死にかけている荻野ちゃんです! みなさんお元気ですか? 荻野ちゃんは 荻野ちゃんは 原稿が

やめましょう。好きで原稿してるんです。わたしは文章を書くことと心中するのでいいのです……

 

六月から始まった原稿マラソン、なんていうか赤字と気力と睡眠時間との戦いすぎて本当に厳しい……でもほら、楽しいじゃないですか! わたしはつらいしきびしいし死にたいし本出すのやめようかなって何度も思ったけど結局、手に取ってもらえた時の嬉しさに勝てなくて出すんですよね。ライフワーク、やめちゃったら息もできない。まぁそのライフワークに忙殺されてるから元も子もないっていうか……楽しいからいいんですよぉ!!

 

なんの話しようとしたんだっけな……あっそうだ、この間また人生の宗教書に出会ってしまったので変なふうに精神の風邪を引くなどしました。そのくらいか。面白い話ができない。無理にするものでもないって〜〜?

 

面白い話、そうね、対人関係の溝に立ってることかな! そのくらい! 面白い話考えたらまたブログ書きます!とりあえずしばらくはマラソンお休みできるかな!