游々自敵

中身のない話と虚無

義務化された「好き」はなんなのか

今年の夏最大の敵を倒しました荻野です。気分がいいので夢庵でさつまいもの天ぷらを食べます。イェーイ。胡粉ネイルの伯林青も買ったので気分は最高です。

 

原稿、なんかこう 書いててつらかったな……書きたいものを書いてるはずなのにめちゃくちゃつらくて、でもこの気持ちって多分こういうことする人じゃないとわからない感覚なんだろうな……内臓がないぞう……みたいなこと考えてました。

好きだからといってつらくないかといえばそんなこと全然ないし、むしろ好きだからめちゃくちゃつらいって思うし、じゃあやめろって話になるんだろうけど、そういうわけでもないんですよね。やめられるならとっくにやめてるし。ライフワークの一環というか。

 

親と話している時、私が多方面に頭を突っ込んでいるせいか「ボランティアやりなよ」って言われるのがめちゃくちゃしんどかったのでつい最近「それをやめてほしい」と伝えました。

ボランティア、金が出ないのが一番嫌なのですが、好きでやってることなら金銭なんて考えない(現に軽トラ市は損得勘定無しでやってる)ので、まずそう考える時点で「好き」ではない。し、私は「好き」なことを「仕事」にすると秒で飽きるし嫌いになるのでボランティアは極力したくないんです。なんていうかあれ、気持ち的な強制力が働きません? disとかではないです。少なくとも私はそれに重荷を感じちゃうからやりたくない。やってる人はすごいなぁっておもいます。

 

私が原稿をやるのは趣味なので、別に投げ出してもいいんですけど、なんか投げ出すの癪だし、私の書いた話を一番好いてるのって私だし、自分の本読みたいから泣きながら一日4000文字とか書いてるわけで、これって多分一生続くし、毎回「つらい」「書きたくない」「書けない」って言うんだろうなぁっておもいました。

 

だからなにって言われたら、これから校正作業つらいなぁって、それだけの話です。お腹空いたなぁ。